昔は、こだわることが美徳みたいに思っていた時期もあったが、今は物事にこだわることを意識していない。
「こだわりを持つ」それは向上心の表れだったし、物を作り出す人間には必要なことだったのはたしかだ。
こだわりが強い人間は度が過ぎれば変わり者になる。世の中の常識からはみ出したこだわりは他人を巻き込んでしまう。
そもそも、こだわりは自分の内側で収めていれば、単なる自己満足で終わるけれど。
そのこだわりを内の外に向けて発した時点で、ただの迷惑にしかならない。
他人のこだわりに巻き込まれるほど面倒くさくて時間の無駄はない。
こだわることを正当化してしまう時期は私にもあった。
こだわりを正当化して人にわかって貰おうとこだわりを語り続けるのは、「我」の強い人間のすることだ。
美術界も、こだわりを美徳としている「我」の押し付けの醜い世界である。
「我」の強い思い上がった人間たちが相対のこだわりを押し付け合ってる。
相対から生まれた「こだわり」など何の意味があるのか。
私にはわからない。
こだわるなら、相対、分別から脱却したこだわりを持つべきだ。
相対や分別から離れたこだわりは人様に押し付けたりすることはない。
自分のこだわりを誰かにわかって貰いたいとも思わないし、思うことは不毛でしかない。
相対や分別から離れたこだわりこそ、絶対の、無二のこだわりなんだ。
それは誰かにわかって欲しいとも思わないし、共感して欲しいとも望まない。
実は、こだわりという概念すらない。こだわることを意識した時点で、それは相対のこだわりへと落ちてゆく。
こだわることは無為自然でなくてはならない。
日々の生活の中に溶け込んでいて、無意識のうちに身体に染み込んでいるのが、本当のこだわりなんだ。
私は世間から離れた思考の持ち主なので、世間一般的なこだわり、私の中では相対分別のこだわりはない。
そんなことに囚われる気はない。
私は今まで、こだわって蓄えた知識や経験などは捨ててしまった。
相対分別のこだわりは私の身体を不自由にして身動きできなくする。
つまらない先入観に身体は支配されて、常識という毒薬を身体中を侵してゆく。
人生を豊かにするのはこだわらない生き方である。どうでも良いことに心を乱され続けてゆく人生などつまらない。
相対、分別から離れて我が道を行く。