失うものと得るものは同じだと誰かはいっていたが、そう感じない人間もいるだろう。
悲しみと喜びは紙一重だと誰かは言っていたが、そう感じない人間もいるだろう。
人間は貪欲の塊だから、いつも何かに飢えていて、むさぼり食えるものを探し続けている。
いつも、「美味しいものが食べたい」とよだれを垂らしながら今食べているものよりも美味しいものを求め続けている。
美味しいものや高級なものを食べれば食べるほど、もっと美味しいものや高級なものを求めてしまい、今食べているものでは満足できなくなる。
なぜ、今食べているもので満足できないのだろうか?
当たり前に思えないのだろうか?
食は欲望を満たすものではなく、生きていくためのエネルギーを得ることだと思わないのだろうか?
私は特別美味いものは食べてこなかったし、食べられる余裕もなかった。
普通に美味しいものは食べさせて頂いたのでそれ以上の美味しいものを求めようとはしなかった。
ましてや、高級食材など食べたことはないので、その味を知らないので欲望を掻き乱されることはないので幸せである。
昔、こんなことがあった。
寿司の話である。
寿司で何が好きか?
という会話に、それぞれは、マグロやサーモンなど魚を次々とあげてゆく。
私は、寿司と言えば、干瓢巻といなり寿司である。それしか食べたことはなかったし、それ以外は魚のノッてる握り寿司だと思っていて、私のような人間が食べるものではないと思っていた。
そもそも、寿司で何が好き?
という無意味な会話自体にはついていけなかった。
私にとって寿司は干瓢巻などの海苔巻きといなり寿司、いわゆる助六寿司だから、寿司の何が好きか?なんて意味はない。
寿司は寿司。目の前に出された寿司が1番である。それ以上はないし、それ以下もない。
私は常に出されたものが世界で一番美味しいものだと思ってありがたく食事でいるので、美味い、不味いの感覚は持ち得ない。
寿司のネタで何が好き?
そんな愚問に踊らされているのは欲望まみれの人間だからだ。
目の前に出された寿司が1番好きで良い。それが全てで良いのだ。
欲望はできる限りそげ落とした方が幸せである。
コロナ禍の中で最も苦しんでいるのは、欲望のままに生きている穢れた衆生である。
コロナ禍で外出は制限され、外食も制限され、人と今までみたいに大声で騒ぐこともできない。
コロナ禍は欲望の制限なんだ。
だから、欲望をできる限りそげ落として生きてきた人間にとっては、コロナ禍は今までと変わりない生活なのである。
コロナ禍の中で制限されていることを今までの生活の中ではほとんど求めてはいないので、我慢などは一切していないし、普段と変わりなく生活が出来ている。
ストレスなどはなくむしろ幸せである。
娯楽という贅沢は昔から求めていないので、休日に遊びに出歩くこともないし、休日はとにかく身体を休めているだけである。
私の信念は、「無為自然」である。
必要以上に何がを求めたりしないで、必要なもの以外は捨て去る努力をしている。
人生に必要なことは、「今」を生きれるだけのエネルギーだけだ。
明日を求める、明日へ希望を持つ為のエネルギーはいらない。
明日は明日の風は吹くだろうが、私はどんな風が吹くのか?
そんなことには興味はない。
今、この瞬間、頬にあたる風が心地よいだけだ。
苦しみや悲しみを背負いながらも今、この瞬間を生きていられることが全てであり、それ以上求める欲などいらない。
幸せとは、今を生きられること。
ただ、それだけさ。