神は罰を容赦なく与えるが、仏は罰など与えない。
どんなに愚かな人間であろうと、どんなに悪いことをしようが仏が罰を与えたりはしない。
仏は悟った者なので、世の中は全ては因果の道理によって出来上がっていることを知っている。
よって、悪人に自ら罰を与えて反省させるようなことはしない。
罰など与えずに、因果の道理を慈悲の心、菩提の心で教えてくれる。
そして、正しい道を歩むように導いて頂けるのだ。
神は、残念ながら悟った者ではないので、「悪いことは悪い」と罰を容赦なく与える。
神は間違った行ないをする人間が嫌いなのである。正しい行ない、正しい言葉、人間の全ての行ないを天から監視している。
神は神を崇め奉ることを大変喜ぶものである。
神を崇め奉れば、願いを叶えてくれるかもしれない。
だから、人は神社へとお参りに行く。願い事をして願いが叶ったら必ず、お礼参りをしなくてはならない。
神は、礼儀を重視する。神は己が絶対であると思ってる。
そんな神が、願い事を叶えてくださったのに、お礼にも行かないことに、神はいち早く憤る。
そんな礼儀も知らない人間には容赦なく罰を与える。
神は、絶対なのだから仕方がない。
神は、仏と違って悟ったものではないので、感情のまま怒ったり、笑ったりする。
仏は悟ったものなので、人間の無礼な態度にも腹をたてることはない。
仏に願いごとをして、願いが叶って、それに対してはお礼参りに来なくても、不愉快にも、怒りの心も湧いてはこない。
むしろ、「願いが叶ってよかったね。私のことを忘れるくらいに喜んでいられるなら。善き哉、善き哉」と笑顔で包み込んで頂けるのだ。
仏の悟りは、忘己利他を無為自然に行えることである。
悪人は罰するのでは慈悲の心で包み込み、善の道へと導いてくれる。
神様は、悟っていないので、悪人は悪人で許してはくれない。神様に柔順な人間が善人であり、その善人のみ救ってくれる。
人間は神の怒りを買わないようにいつも神の顔色を見ながら生きてゆくのだ。
「触らぬ神に祟り無し」
そんな言葉がある。神をいいかげんな気持ちで拝み奉ったり、気軽に神社や教会で願いごとをしてはならない。
神をいいかげんに扱えば必ず罰を与えられる。
神は自分に背く者を絶対に許さないから。
触らぬ神に祟りなし。
関わらなくて住むなら、変わらない方が良いのさ。
遊び感覚で御朱印を集めて楽しんでいるのは勝手だか、しっかりと礼儀を持って神を奉ることを忘れてはならない。