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ブログ 【一水四見(いっすいしけん)】

本当の『我』とは。

本当の『我』というものは、自分の内側の深いところにある。
肉体はただの現象であり、それが全てではない。
肉体から見た物は仮の現象に過ぎないので、それほど重要でもない。

本当の自分は心の奥底に存在するが、ほとんどの人間には理解し難いしわからない。私自身も本音をわからないが理解はしているつもりだ。

人間は、前五識(目、耳、口、触、意)の五識によってとりあえずの目の前にある物事を本当のことだと認識する。

前五識は見た物事をそのまま認識する。
それだけなら、認識した物事をそのまま感じるので問題などない。

しかし、人間には前五識を包み込むように、末那識(自己執着識)が存在する。

この末那識が、寝ても覚めても自分の都合で『俺が、俺が』と自分の都合の良いように前五識が認識したことを曇らせ自分の都合良く認識を変えて記憶する。

前五識は一瞬一瞬、認識し続ける為に一度認識して記憶することはない。
記憶されるのは末那識の働きを通った心の奥底にある阿頼耶識である。

阿頼耶識とは別名、蔵識ともいい。蔵のような貯蔵庫である。

阿頼耶識には、現世の業(ごう)、行いに限らず、前世、そのまた、前世の全ての業(ごう)、行いが善悪に関係なく全て蓄積されている。

業種子、業の種となり、衣に香りがつくように薫習されている。

蓄積された様々な業種子は縁と結びつくまで消えることなく阿頼耶識の中に残り続ける。

蓄積された善業は、良い縁と結びつき、因縁生起されて、良い果報となって我々の運命となる。

蓄積されま悪業は、悪い縁と結びつき、因縁生起されて、悪い果報となって我々の運命となる。

現世、前世、そのまた前世と全ての業(ごう)は阿頼耶識に蓄積され続けてゆく。

身、口、意の全ての行いは業種子となり、阿頼耶識に縁と結びつくまで残り続ける。

阿頼耶識に薫習された業(ごう)こそ、本当の『我』である。

我々がこれが自分だと思い込んでいるのは、末那識(自己執着識)の影響をうけて曇りガラスから真実を見ているに過ぎない。
自分の都合より物事を解釈しているに過ぎないので、自分以外の人間は自分と同じような見方はしていないはずである。

あくまで、自己執着心による都合の良い見方に過ぎないってことで当てにもならない。

仏教で良くいう。
『我などはない。』というのは、今、自分がこれが私と思っているような『我』などはないということだ。
それは、ただの自分の都合良く、『我』という自分を作り出したに過ぎないってことだ。

本当の『我』とは、阿頼耶識に蓄積されている末那識の影響を受けていない過去に自分が行ってきた業(ごう) のひとつひとつである。

善業も、悪業も、無記業も、全てが本当の『我』なのである。

そして、善業も、悪業も、無記業も、縁がくれば因縁生起する。

業は阿頼耶識に蓄積され、縁と結びつき新しい運命となり生起する。

日々、蓄積されている業(ごう)のひとつひとつが本当の『我』ではあるけれど、縁と結びつけば新しい運命となり生起して、縁と結びつく前に蓄積しれていた業(ごう)は消滅し、新しい運命は、新しい業(ごう)として、また、阿頼耶識に蓄積される。

その繰り返しが本当の『我』なのである。
固定不変の『我』などは存在しないし、常に変化し続けているものだ。

固定不変の『我』があると思い込んでいるのは、末那識(自己執着識)による思い込みである。



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