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ブログ 【一水四見(いっすいしけん)】

仏教の根元

仏教は、もっとも複雑な宗教である。

仏教の起源、釈迦の悟った教えである。

諸行無常 一切の万物は常に移り変わってゆく。
諸法無我 永久不変の我というものは無い。
一切皆苦 生きることは苦しむこと。
涅槃寂静 煩悩の炎を打ち消し覚りの境地にたどり着くこと。

これを仏教の根元の教え 『四法印』という。

釈迦の教えを一言でいうなら、『縁起』である。
つまり、直接原因の『因(いん)』があり、間接原因の『縁(えん)』あり、互いが結びついて結果、『生起(しょうき)』する。

全ては、因と縁の結びつきで我々は出来上がっているということを釈迦は教えている。

因果応報という言葉は仏教の言葉である。

善因善果(善因喜果) 悪因悪果(悪因苦果)


因と縁を他の言い方をするなら、『業(ごう)』である。
因は、直接原因なので、自分が行ってきた行いを『業(ごう)』という。

それは、良い行いは善業(ぜんごう)であり、悪い行いを悪業(あくごう)という。

縁も業(ごう)であるが間接原因である。
しかし、縁は善も悪もない業(ごう)である。

因という業(ごう)と結びつくことで縁は悪業にもなれば善業にも変わる。

因は縁と結びつかなければ意味をなさない。

種というのが『因(いん)』であるとするなら太陽は『縁(えん)』である。

良い種が太陽と結びつけば、実がなる。

しかし、腐った種が太陽と結びついても実はならない。

良い種が雨という縁と結びついて実がなる。

しかし、腐った種が雨という縁と結びついたら、実がなるどころじゃなく、腐った種はより腐ってゆく。

『因(いん)』はどんな『縁(えん)』と結びつくかで結果が変わるが、『因(いん)』そのもの本質は何も変わらない。

しかし、『因(いん)』そのものが善業であっても、悪業であっても、それは過去に自分が行ってきた行為なので、変えることはできない。

しかし、『縁(えん)』はどんな縁と結びつくかは、今の自分の業(ごう)つまり行いで変えられる。

たとえ、過去に悪業であっても、今、この瞬間が善の功徳を積み重ねた善業なら、善縁と結びつく。

縁は変えられるということなんだ。


これが基本となって、より因果の道理とは何かを解説しているのが、唯識思想である。

唯識思想、唯識学は教義で、仏教の根元の教えなんだ。

唯識思想は覚りを求めるものからみた教えであるのに対して、唯心思想は覚ったもの仏からみた教えであるんだ。

唯識が理解できないと唯心は理解できないし、唯心がわからないと唯識が理解できない。

理解できると結局、同じことを言っている。

唯識は、法相宗の教義
唯心は、華厳宗の教義

これが基本に日本仏教が誕生してゆく。

唯識も、唯心も、信仰というより、釈迦か覚ったことを様々な弟子たちがより深く考察して発展させて作りあげた仏教哲学なのである。

唯識思想が存在しなけれぱ今の日本仏教は存在しないと言って良いほどの大事な思想であり、教えである。

これをふまえて、日本仏教の各宗派を学んでゆくと、それぞれ、まったく違うテイストの仏教が存在していることを知る。

仏教と一言で片付けられてしまうけど、実は奥が深くて難解なのが仏教である。

釈迦の覚った『縁起』をより難しく説明したのが仏教なのかもしれない。

だからこそ、面白いのかもしれない。



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