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ブログ 【一水四見(いっすいしけん)】

百丈野狐

こんな話がある。

この寺の住職である百丈禅師が、日々、修行僧たちに説法を説いていた。

ある時、ひとりの修行僧が、百丈禅師にこう尋ねた。

『厳しい修行をし、さとりの境地にたどり着いたら、因果律から離れることはできるのでしょうか?』

百丈禅師は言った。

『不落因果(因果に落ちることはない)』

そうすると、たちまち百丈禅師は野狐身になり、五百回も野狐に輪廻し続けることになった。

それから幾年月が過ぎた。

ある時、寺の住職が村の人々に有難い仏の教えを毎日説いてた。

毎日、真剣に説法に耳を傾けて、説法が終わると姿を消してしまうひとりの老人がいた。

ある時、その老人はその日は姿を消さず、住職をじっと見ていた。

住職は、その老人に声をかけた。

『いつも居られるがどこから来なさった?』

そう言うと、老人はこう答えた。

『私は人間ではありません。その昔、この寺で住職をやっておりましたが、ある時、なぜだかわかりませんが野狐に輪廻し野狐身になり、もう五百回も野狐への輪廻を繰り返しております。』

『どうしたら、野狐への輪廻から解き放たれるのでしょうか?』

住職は一言。

『不昧因果(因果をあいまにしない)』

それを聞いて覚ることができた老人に化けた野狐身はたちまち野狐への輪廻から解き放たれました。

なぜ、百丈禅師は野狐身に輪廻したのでしょうか?

『不落因果(因果に落ちない)』

どんなに厳しい修行をして仏の教えを体得して覚ったからと言っても因果律から逃れることはできない。
全ては因と縁で結びついて成り立ってる。

それなのに、自分は覚っているから因果からも解き放たれて、因果に落ちることなどないと思い上がった心が野狐へと生まれ変わらせたのだ。

それなのになぜ、野狐身になったのか。わからないから、五百回も野狐に輪廻し続けている。

『不昧因果(因果をあいまいにしない)』

つまり、因果は因果として向き合い、たとえ、厳しい修行をして覚っても因果律は消えることはなく、誰もが因果に落ちてゆく。

因果は因果ととらえて生きてゆくことこそが覚りである。

当たり前のことを当たり前にとらえて生きてゆくことに禅の覚りがある。

もっと言えば、不落因果 不昧因果ということすら囚われず生きてゆくことが覚りである。

ある高僧が、『わしのところには生だの死だのは存在しない。』と言った。

きっと、厳しい修行をして覚った徳の高いお坊さんは死ぬことも超越した覚りの境地に達したのだろうと思うかもしれないが、それは誤りである。

その高僧はただ、死ぬことや生きることをあいまいにせず、受け入れて生きておるだけ。

さとりとは死ぬことに囚われず、しかし、あいまいにもせずありのままに受け入れて、平気でいきることなんだ。

こんな話が仏教にはたくさんある。



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