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ブログ 【一水四見(いっすいしけん)】

自分のことはわからない

『となりの芝生は青い』
そんなことわざがあるが、このことわざは間違いである。
『となりの芝生は青い』とはただの思い込みでしかない。

今の自分に不平不満がある人間は、やたらと他人のことを思い計らう。

他人と自分を比べて、今の自分を卑下する。

『何て自分は不幸なんだ』とただ、思い込んでいる。

はっきり言う。

『となりの芝生は青くない。』
青く見えてるのは、その人だけで現実は青くもなく、自分の家の芝生と何も変わらない。

人間は不幸な人間と幸福な人間を相対で分けたがる。
それは全て自分の分別心が作り出した妄想に過ぎない。

そう、心がただ、不幸な自分と幸福の他人を作り出しているに過ぎないということ。

不幸な自分も、幸福な自分も、現実的な環境下で決まるものではない。

どんなにお金が合っても、金に群がる人々だけで誰も信用できずに孤独なら、その人は自分を不幸だと思う。

でも、他人はあれだけお金があって、大きな家に住み、高級車に乗ってるなんて、幸福な人だと思う。

働いても、働いても生活は楽にならないけど、自分には夢が合ってそれに向かって努力している。たとえ、みんなに馬鹿にされても諦めずやり続けている人は、幸せなんだよね。

でも、他人は借金ばかりで家も貸家で汚い服しか着てなくて、いつもお腹をすかしてる。何て不幸な人だと思う。

人は自分の都合で他人を見て真実だと思い込む。
本当に不幸なのか。
本当に幸せなのか。

それは我執に囚われた人間には見えないものだ。

不幸も、幸せも、他人が決めるものではない。
自分自身の心が決めるものなんだ。

『となりの芝生が青かろう』とそんなことはどうでも良い。

自分のことが何一つわかってない人間は、他人と自分を比べて、自分というものを知る。

しかし、それはただの思い込みであって、本当の自分じゃない。

本当の自分は相対の世界から離れて初めて自分を知ることができる。

自分はあの人たちより不幸だと思うこども。

自分はあの人たちより立派な人間だと思うことも。

実はまったく同じで、我に執着しているだけ。我執の強い自己顕示の塊なんだ。

結局、自分は不幸だと思うことも、自分は幸せだと思うことも、自分中心に物事を考えているだけなのだ。

相対の世界から離れれば不幸も幸せも一体となる。良い時もあれば悪い時もあるし、そんなことはわからないから執着しないようになる。

あなたは幸せですか?
あなたは不幸ですか?

そう質問されたら、相対から離れればこう答えるだろう。

『そんなことはわからない。』
『そんなことはどうでもよい。』

良いことも、悪いことも、全ては心が作りました感情出って、瞬間瞬間に生まれては消え、生まれては消え、日々移り変わってゆくもの。肉体も、心も、全ては固定不変ではないのだから。

自分は不幸だ。
自分はダメだ。

自分は優れてる。
自分は偉い。

そんなことに何の意味もない。
明日にはなれば消えてゆくものに、これが自分なんだと思い込むなんて、まったく意味はないんだよね。

ただ、我に執着して本当の自分が見えてないだけなんだよね。

『となりの芝生が青かろうとそんなことはどうでも良い。』



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