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ブログ 【一水四見(いっすいしけん)】

身業・口業・意業

インターネットの普及で誰でも無責任に発言できるようになった。

この無責任な発言が世の中を狂わせると同時に己自身の未来までも狂わせてしまうことに何人の人が理解しているだろうか?

仏教では、身業(体で行う行為)・口業(言葉による行為)・意業(心で感じる行為)がある。

このいずれかの業(ごう)が善も悪も区別することなく阿頼耶識という深層心理の中に全て蓄えられて未来の自分へと因縁和合、因縁生起する。

良くネットで、悪いことや過ちを犯した者を何の関係もない人々が誹謗中傷をする。人の粗を探して挙げ足をとったりして優越感に浸って楽しんでる。

この行為は、口業もしくは意業にあたる。実際に相手を身体で傷つけていなくても、言葉の暴力で相手を殺しているのと同じだ。

これは列記とした悪業だ。ネットに書き込まなくても、その記事を読んで心で同調することも悪業だ。意業(心で感じる行為)で、実は仏教ではこの意業を重要視している。

それに、良い行いをした立派な人に対して、『ありがたい立派な人だ』とその功績を誇らしく思うことは、その立派な人の善業と同じ善業を得ることになる。

これを『随喜善(ずいきぜん)』という。
これは意業(心で感じる行為)のためなのだ。

逆もある。いじめをしている者の横で、『やれやれ』とおもしろいがって囃し立ててる者は、いじめてる者と同じ悪業をしたことになる。

これを『随喜悪(ずいきあく)』という。

阿頼耶識に蓄積された善悪関係なく薫習された業種子(ごうしゅうじ)は縁と結び付いて、良い業種子は良い果報となり、悪い業種子は悪い果報となり、未来の自分の人生を運命づける。

過去世、現世、未来世と業(ごう)は薫習されて、縁と結びつき消えとものすごい早さで生まれては死ぬを繰り返している阿頼耶識の中には業(ごう)が刹那滅し続けている。

肉体は滅んでも永遠に生まれては死ぬをものすごい速度で繰り返している業(ごう)そのものが本当の自分である。

自分とは、我ではなく過去の業(ごう)なのである。

我とは、本当の自分がわからないから、他を作り、それを通して我というものを作りあげたに過ぎない。


我他彼此の世界を本当の自分がわからないから作り出したに過ぎない。

本当の自分は業(ごう)である。過去から薫習されてきた善と悪の身業・口業・意業である。

僕らは業(ごう)によって成り立っているし、未来に何がおきるか?どんな未来が待っているのか?全て今の業(ごう)の働きによってきまる。

だから、自らは悪くないと悪いのは相手だと悪口や罵声を浴びさせるのも、言葉にした悪業、心の行いによって悪業になる。

誰かの悪口や罵声に賛同するのも、また、『随喜悪』となって悪業となるから気をつけなくてはならない。

いくら正義だからと人を非難するのはやめよう。自分が正しいからと人を責めるのもやめよう。

できる限り悪業にならないように気をつけよう。



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