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ブログ 【一水四見(いっすいしけん)】

神社には行かない。

神社には行かない。ましてや、正月だからとわざわざ人混みにまみれる為に初詣もしない。

僕にとって神社に、神様なんていないと思って生きてきたので。

だからといって神仏を信じていないわけでもない。

ただ、天照大神などの神話に出てくるたくさんの神様は虚像でしかないと思っている。

それに、僕の思想的宗教観の中心は、『唯識』『唯心』である。

全ては、人の認識により存在しているのであって、それは神や仏も同じ。
人が認識して、心の作用により生み出されているに過ぎないわけで、全ては心が作り出した現象に過ぎない。

だから、僕は神様を認識もしていないし、心の作用によって生み出されてもいないので、少なくとも僕の中には天照大神などの神々は存在しない。

だから、神社には行かないし、ましてや、初詣にも行かない。

神様を認識する者なら、神社でも行って神頼みでもすれば良い。

僕は否定はしない。なぜなら、全ては心が作用して生み出された現象の中で我々人間は生きているのだから。

僕は自分が認識できないで心が作用しない事柄には、まったくと言って興味を持たない。

誰かがやってるから、だとか。
とりあえず流行っているから、乗っかろうだとか。

そう言う感覚は一切ない。

だから、神道の伝統的風習など、日本に昔から根付いている行事などにも一切興味はない。

僕は昔から、仏道の方が遥かに好きだったし、何より仏教の方がしっかりとした学問として成り立っているので学ぶには良いのだ。

神道は、教えがあってない。教典もなければ教えを世の中に伝える導師もいない。

その点、仏教は哲学である。生きる為の哲学であり、矛盾を解き明かす学問なのである。

今だから、仏教も葬式ビジネス仏教になってしまったが、仏教はあくまで、釈迦が悟った真理を学ぶ学問なのである。

神道も、キリスト教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も、真理を解き明かそうとすればするほど矛盾にぶち当たる。

そこで、その矛盾と真っ向から向き合えるのは仏教だけである。

他の宗教は全て、説明できない矛盾は、『神様のお導き』だとか、『神様から与えられた罰』だとか、そう説明できない矛盾初詣全て神様の仕業にしてしまう。

仏教には、絶対神はいない。そもそも、神様の存在を認めていない。少なくとも原始仏教では。

今では、仏教も仏と言う神がかり的な存在も信仰の対象になってはいるけれど、それはあくまで釈迦の解いた真理を偶像化したに過ぎないので、釈迦如来も、阿弥陀仏なども全て人間が拠り所にしやすくするための変化に過ぎない。

仏教はあくまで、人が人として正しく生きるために何をするべきか?
を教えてくれた釈迦の真理を体得する修行なのである。

それに釈迦の真理とはものすごく奥が深いので一生学んでも理解し難いものなのである。

釈迦の真理を学び、体得すること=覚りのことである。

四法印である。諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静をまずは学び、学べば学ぶほど矛盾が生じてくる。矛盾を感じない者はそのことを深く理解していないだけだ。

そのたくさんの矛盾を解き明かすために、『唯識』と考え方で『空(くう)』の真理から発生した矛盾を解き明かす。
『唯識』はすごく難しいので、長年勉強していても今だに理解できていない。
『唯識』をある程度理解できないと、次の『唯心』も理解し難いのだ。
『唯識』や『唯心』を理解できないと本当の意味での縁起ということも理解できない。

仏教は、東洋哲学の礎だと私は思ってる。儒教や道教、そして仏教とそれぞれ、まったくことなる哲学だと僕は思うのだ。

宗教とは、教えを学ぶ学問であり、その学問を体得することで自分が救われるものだと思う。

教えを学ぶことより、信仰することばかりに目が向けられて学ぶことをおろそかにするのは本末転倒ではないだろうか?

僕が神道が好きではないのは、教えが明確でない、もしくは教えがあってないようなものだからだ。

学ぶことのできない宗教はもはや、宗教とは言わないし、宗教の定義から外れている。

神道は、宗教ではない。
だから、僕は興味もない。

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