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ブログ 【一水四見(いっすいしけん)】

一即一切、一切即一

善悪に固執しない。
僕は日々気を付けて生きている。

しかし、残念ながら僕のような煩悩多き人間は、善悪、正しい誤りと自分を中心に考えてしまう。

日々、自分が正しい。そんな慢心が垢のように心にこびりついている。

メガネは、キレイなものを見ようと、汚いものを見ようと、メガネは常に同じものを映しているのに、人間はメガネが汚いものを映していて汚れたものだと勘違いする。

メガネは何をみようとメガネの本質は変わらない。メガネの本質を変えてしまっているのは、人間の自我執着心である。

自我執着心は、自分の都合で、思い計らい続けている。

自分と他を分けて、自分と他は別のものだと勘違いしている。

一即一切、一切即一
ひとつは、世界であり、世界はひとつ。
自分は世界の中に溶け込んでいて一体であり、自分無しでは世界は成り立たない。

世界の中で自分無しでは世界は成り立たないし、自分無しでは世界はない。

そんな自分と世界との関係性が無数に相互し合い、互いに説け合って関係性を保っている。

相即相入で世の中はできあがっている。

自分と他は一体という相即相入性が理解できれば、分別心で区別したとしても、無分別で互いを見ることができる。

自分は善で、他人は悪というものの見方をしなくなる。

自分と他は同一、一体で一即一切、一切即一であるなら、他人の過ち、悪は自分を構成している要素になる。

実際、自分が正しい行いをしていても、自分とその悪人とは因縁生起でなりたっているのであるなら、自他一体で見れば、自分にも、悪の業が備わっている。

それを自分は正しいと、悪人を責める気持ちは自己執着心で本性を眩ましている状態である。

自分は他と一体で、世界を形成する要素のひとつが自分であり、自分を構成する要素が世界である。

悪人もまた、自分を形成するひとつの要素であり、悪人を作り出した要素のひとつが自分なのである。

悪人と自分との関係性は全て、業縁によって縁起されたものである。

自分は正しいと自我に執着していると、他の悪人を許せなくなる。許せなくなれば、その悪人を責めてしまう。

その理屈がわかっていても、悲しきは煩悩まみれの人間であるから、正義をかかけで責めなくなるんだよね。

そんな時は、深く深呼吸して心を落ち着ける。

自分と他人は一体、同心だと思えば、他人の過ち、悪業は自分自身が行ってしまう可能性があると思うようにする。

そうすれば、他人を責めたいという気持ちは少なくなり、やがて消える。

善悪を眩まして良いということではない。ありのままに善悪を観ることである。
善も悪も、表裏一体であり、善は悪があるから存在し、悪もまた、善があるから存在する。

善だけの世界には、悪業も、善業もない。悪だけの世界には善業も、悪業もない。あるのは、無漏の業だけである。

悪人ばかりが集まる世界には争いは起こりにくいが、善人ばかりが集まる世界には争いが起こる。

戦争は、自己執着心が招いた正義が起こした悲劇である。戦争は自己執着心による正義同士の争いである。

正義は正しい。

それこそが、真実を眩ました慢心である。正義と悪を自己執着的に分別したゆえの愚かな業である。

愚かな業は、愚かな業種子となり、溜め込まれ、愚かな縁と結びつき、愚かな業縁を作り、たま、愚かな業を生み出す。

悪業輪廻、善業輪廻、自業輪廻

全ては不昧因果、因果を眩ました結果である。



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